マリア・フェルディナンダ・ディ・サッソニア

マリア・フェルディナンダ
Maria Ferdinanda
トスカーナ大公妃
トスカーナ大公妃マリア・フェルディナンダ・ディ・サッソニア(フリードリヒ・カウルバッハ画、1851年)
在位 1821年 - 1824年

全名
一覧参照
  • : Maria Ferdinanda Amalia Xaveria Theresia Josepha Anna Nepomucena Aloysia Johanna Vincentia Ignatia Dominica Franziska de Paula Franziska de Chantal
    マリア・フェルディナンダ・アマーリア・クサヴェリア・テレジア・ヨーゼファ・アンナ・ネポムツェーナ・アロイジア・ヨハンナ・ヴィンツェンティア・イグナティア・ドミニカ・フランツィスカ・デ・パウラ・フランツィスカ・デ・シャンタル
    : Maria Ferdinanda Amalia Saveria Teresa Giuseppa Anna Nepomucena Luisa Giovanna Vincenza Ignazia Domenica Francesca di Paola Francesca di Chantal
    マリア・フェルディナンダ・アマーリア・サヴェリア・テレーザ・ジュゼッパ・アンナ・ネポムチェナ・ルイーザ・ジョヴァンナ・ヴィンチェンツァ・イグナツィア・ドメニカ・フランチェスカ・ディ・パオラ・フランチェスカ・ディ・シャンタル
出生 (1796-04-27) 1796年4月27日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ザクセン選帝侯領ドレスデン
死去 (1865-01-03) 1865年1月3日(68歳没)
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国、ブランディース・ナト・ラベム=スタラー・ボレスラフ
埋葬 オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーンカプツィーナー納骨堂
結婚 1821年5月6日 フィレンツェ
配偶者 フェルディナンド3世
家名 ヴェッティン家アルベルティン家
父親 マクシミリアン・フォン・ザクセン
母親 カロリーナ・ディ・ボルボーネ=パルマ
宗教 キリスト教カトリック教会
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マリア・フェルディナンダ・ディ・サッソニアイタリア語: Maria Ferdinanda di Sassonia, 1796年4月27日 - 1865年1月3日)は、トスカーナ大公フェルディナンド3世の2度目の妃。

生涯

前半生

マリア・フェルディナンダは1796年4月27日、のちのザクセン王太子マクシミリアンとパルマ公女カロリーナ・ディ・ボルボーネ=パルマとの間に第二子次女として生まれた。1804年に母が亡くなったのち、父は1825年にマリーア・ルイーザ・カルロッタ・ディ・ボルボーネ=パルマ(英語版)エトルリア王ルドヴィーコ1世の娘で、先妻カロリーナの姪)と再婚したが、この結婚で子どもはできなかった。父は王位継承権を放棄して自身の権利を長男に譲り、1838年に死去した。

マリア・フェルディナンダには7人の姉弟がおり、ほとんどが望ましい結婚をした。長姉のアマーリエ(英語版)は生涯未婚だったが著名な作曲家となった。長弟は1836年にザクセン王フリードリヒ・アウグスト2世として即位した。次弟のクレメンスは24歳で亡くなった。その下の弟妹のうち3人(マリア・アンナ、ヨハン、マリア・ヨーゼファ)は、それぞれトスカーナ大公妃、ザクセン王、スペイン王妃となった。

1817年、マリア・フェルディナンダはトスカーナ大公世子レオポルドと結婚する予定の妹マリア・アンナに付き添ってフィレンツェに行った[1]。2人はとても仲が良く、またマリア・アンナは怖がりで姉の同伴無しではとてもフィレンツェに行く事など出来なかった[1]。妹は正式に結婚したが、姉のマリア・フェルディナンダがレオポルドの父トスカーナ大公フェルディナンド3世の目に留まるという、明らかに予想外だった事が起こった[1]

トスカーナ大公妃

大公妃マリア・フェルディナンダの肖像画(1822年)

1821年5月6日、フィレンツェでトスカーナ大公フェルディナンド3世と結婚した[1]。彼女は2人目の妃であり、フェルディナンド3世は27歳年上だった。夫の最初の妃ナポリ及びシチリア王女のルイーザ・マリアは、マリア・フェルディナンダの父方の又従姉妹であり、母の従姉でもあった。フェルディナンド3世は直近にマリア・アンナと結婚した唯一の息子のレオポルドを心もとなく思っていたので再婚を望んだと考えられている。レオポルドは健康状態に問題があると考えられていた。この結婚でマリア・フェルディナンダに子どもは生まれなかった。妹のマリア・アンナはフェルディナンド3世の息子のレオポルドと結婚していた為、マリア・フェルディナンダは妹の義母になった。フェルディナンド3世は1824年にフィレンツェで亡くなり、レオポルドとマリア・アンナ夫妻がトスカーナの大公と大公妃になった。

後半生

晩年のマリア・フェルディナンダ(1862年)

1859年、トスカーナ大公家はイタリア統一運動の間に大公位を喪った。大公家はフィレンツェのピッティ宮殿から、オーストリア帝国ウィーンの皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇后エリーザベト夫妻の宮廷へと去った。マリア・フェルディナンダはそれ以降は主にボヘミアのブランディース・ナト・ラベム=スタラー・ボレスラフの居城で暮らしていたが、しばしばドレスデン宮廷に弟のザクセン王ヨハンの客として呼ばれた。きょうだい達の中では特に姉のアマーリエとは親密な関係で結ばれていた。またスペイン王妃マリア・ルイサによって創設されたマリア・ルイサ王妃貴婦人勲章(英語版)を授与されていた。

マリア・フェルディナンダは未亡人として41年過ごし、1865年1月3日に亡くなった。亡骸はウィーンの帝室納骨堂に埋葬された。

系譜

マリア・フェルディナンダ・ディ・サッソニアの系譜
8. ポーランド王アウグスト3世
4. ザクセン選帝侯フリードリヒ・クリスティアン
9. マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ
2. マクシミリアン・フォン・ザクセン
10. 神聖ローマ皇帝カール7世
5. マリア・アントーニア・フォン・バイエルン
11. マリア・アマーリエ・フォン・エスターライヒ
1. マリア・フェルディナンダ
12. パルマ公フィリッポ1世
6. パルマ公フェルディナンド1世
13. ルイーズ・エリザベート・ド・フランス
3. カロリーナ・ディ・ボルボーネ=パルマ
14. 神聖ローマ皇帝フランツ1世
7. マリア・アマーリア・ダズブルゴ
15. マリア・テレジア

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d Toscana, p. 18.

参考文献

  • Toscana, Luise von (1911). My Own Story. London: Ballantyne & Company LTD. https://archive.org/details/myownstory00marigoog. "My own story Toscana." 

関連項目

ウィキメディア・コモンズには、マリア・フェルディナンダ・ディ・サッソニアに関するカテゴリがあります。

マリア・フェルディナンダ・ディ・サッソニア

1796年5月27日 - 1865年1月3日

王室の称号
空位
最後の在位者
ルイーザ・マリア・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ
トスカーナ大公妃
1821年–1824年
次代
マリア・アンナ・カロリーナ・ディ・サッソニア
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