アル・ホルバート

ホルバートがチャンピオンを獲得した、レーベンブロイカラーのポルシェ・962

アル・ホルバート英語:Alvah Robert "Al" Holbert、1946年11月11日 - 1988年9月30日)は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州出身のレーシングドライバーで、IMSA GTシリーズで5度のチャンピオンを獲得した。

経歴

ホルバートの父はレーシングドライバーのボブ・ホルバートで、ペンシルベニア州ウォリントンでフォルクスワーゲンとポルシェのディーラーを経営していた。ホルバートはリーハイ大学在学中にロジャー・ペンスキーのもとで働いた。1971年、ホルバートはポルシェをドライブしてレースに初優勝し、1974年にプロドライバーに転向した。ホルバートは初のシボレー・モンザをドライブしてIMSAのタイトルを1976年に初めて獲得すると、翌1977年もIMSAタイトルを制した。ポルシェのサポートを受けていたホルバートは、ポルシェの技術者にモンザを点検させた。その後ポルシェはターボ車の934を投入し、以後数年にわたりIMSAを支配した。また、ホルバートもポルシェに車両を変更した。

1976年から1979年にかけて、ホルバートはNASCARに参戦し、19レースに出走した。ホルバートは主にジェームズ・ヒルトンのチームから参戦し、19レースのうち4レースでトップ10フィニッシュを果たした。

1983年、ホルバートはポルシェエンジンを搭載したマーチ・83GでIMSA GTPのタイトルを追加した。ポルシェはこの年、956をIMSA規則に適合させることができなかった。1983年2月27日、ホルバートはグランプリ・オブ・マイアミでシーズン初勝利を挙げると、全17レースのうち8レースに優勝した。1984年にはインディ500で4位に入り、1987年から1988年にかけてポルシェのインディカー活動を牽引した。

ホルバートはル・マン24時間レースに1983年、1986年、1987年の3勝、デイトナ24時間レースでは1986年と1987年の2勝、セブリング12時間レースでは1976年と1981年の2勝を挙げた。ホルバートは北米ポルシェのモータースポーツディビジョンのリーダーとなり、自身のチーム「ホルバート・レーシング」を運営した。

1988年、ホルバートは自身の初期の成功を支えたポルシェ・962は、ジャガー・XJR-9エレクトラモーティブ日産・GTP ZX-Tのような車両によって時代遅れにされつつあると気付いた。ホルバートはカスタマーチームのためにポルシェのインディカー用エンジンを搭載したオープントップのレース車両を160万米ドルで作ることを計画した[1]。それから10年ほど経ち、ポルシェは最終的にポルシェ・WSC95を作製したが、ホルバートとポルシェが計画したようなカスタマー販売は実現しなかった。2009年現在、ル・マン24時間レースを複数回制したアメリカ人は、ホルバートと、ホルバートが初優勝したときのチームメイト、ハーレイ・ヘイウッドのみである。

1988年10月30日、ホルバートはIMSAのコロンバス・フォードディーラーズ500に参戦した。その晩、ホルバートの所有するプロペラ機、パイパー・PA-60がオハイオ州コロンバス付近で離陸直後に墜落し、この飛行機に乗っていたホルバートは死亡した。墜落時、PA-60のクラムシェルドアは閉まっていなかった。ホルバートは、PA-60の飛行方向にあった住宅をうまくかわした。[2][3]。シーズン終了後、ホルバートのチームは解散し、IMSAはホルバートが使用したカーナンバー14を永久欠番にした。

ホルバートレーシングのチーフメカニックだったケビン・ドーランは後にチームオーナーとなった。ホルバートの息子、トッド・ホルバートはホルバートレーシングのメカニックだったが、後にトヨタでタンドラカムリNASCAR車両開発に携わった。

レース戦績

ル・マン24時間レース

ル・マン24時間レース 結果
チーム コ・ドライバー クラス 周回 順位 クラス
順位
1977年 フランスの旗 イナルテラ フランスの旗 ジャン=ピエール・ベルトワーズ イナルテラ・LM77-コスワース S
+2.0
275 13位 5位
1980年 ドイツの旗 ポルシェ・システム イギリスの旗 デレック・ベル

ポルシェ・924 カレラGT GTP 305 13位 6位
1982年 ドイツの旗 ロスマンズポルシェ・システム アメリカ合衆国の旗 ハーレイ・ヘイウッド
ドイツの旗 ユルゲン・バルト
ポルシェ・956 C 340 3位 3位
1983年 オーストラリアの旗 ヴァーン・シュパン
アメリカ合衆国の旗 ハーレイ・ヘイウッド
C 370 1位 1位
1985年 ドイツの旗 ロスマンズポルシェ オーストラリアの旗 ヴァーン・シュパン
イギリスの旗 ジョン・ワトソン
ポルシェ・962C C1 299 DNF DNF
1986年 イギリスの旗 デレック・ベル
ドイツの旗 ハンス=ヨアヒム・スタック
C1 368 1位 1位
1987年 イギリスの旗 デレック・ベル
ドイツの旗 ハンス=ヨアヒム・スタック
C1 355 1位 1位

セブリング12時間レース

セブリング12時間レース 結果
チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 順位 クラス
順位
1980年 アメリカ合衆国の旗 サンダーバード・スワップショップ アメリカ合衆国の旗 ジョン・ポール Sr.
アメリカ合衆国の旗 プレンストン・ヘン
ポルシェ・935K3 GTX 239 4位 4位
1981年 アメリカ合衆国の旗 ベイサイド・ディスポーザル・レーシング アメリカ合衆国の旗 ハーレイ・ヘイウッド
アメリカ合衆国の旗 ブルース・レーベン
ポルシェ・935-80 GTX 245 1位 1位
1982年 アメリカ合衆国の旗 ハーレイ・ヘイウッド
アメリカ合衆国の旗 ブルース・レーベン
GTP 231 5位 4位
1983年 アメリカ合衆国の旗 ハーレイ・ヘイウッド

GTP 229 3位 2位
1984年 アメリカ合衆国の旗 ベイサイド・ローエンバウ アメリカ合衆国の旗 ハーレイ・ヘイウッド
フランスの旗 クロード・バロ=レナ
GTP 123 DNF DNF
1985年 アメリカ合衆国の旗 ホルバート・レーシング イギリスの旗 デレック・ベル
アメリカ合衆国の旗 アル・アンサーJr.
ポルシェ・962 GTP 277 2位 2位
1986年 イギリスの旗 デレック・ベル
アメリカ合衆国の旗 アル・アンサーJr.
GTP 269 3位 3位
1987年 アメリカ合衆国の旗 チップ・ロビンソン

GTP 296 2位 2位
1988年 アメリカ合衆国の旗 チップ・ロビンソン

GTP 142 DNF DNF

受賞歴

脚注

  1. ^ J.A.Martin, Michael J. Fuller (2008). James Manning Michels. ed (英語). Inside IMSA's legendary GTP race cars: the prototype experience. Mineapolis, MN: MBI Publishing Company LLC and Motorbooks. pp. pp.83-84. ISBN 978-0-7603-3069-2 
  2. ^ Aircraft Accidents and Incidents - COLUMBUS, OHIO 43235 OHIO STATE UNIVERSITY AIRPORT Friday, September 30, 1988 9:24 PM EDT
  3. ^ Famous People Who Died in Aviation Accidents 1980s

外部リンク

アル・ホルバート - Find a Grave(英語)

タイトル
先代
ジャッキー・イクス
デレック・ベル
ル・マン24時間優勝者
1983 with:
ヴァーン・シュパン
ハーレイ・ヘイウッド
次代
クラウス・ルートヴィッヒ
アンリ・ペスカロロ
先代
クラウス・ルートヴィッヒ
パオロ・バリッラ
"ジョン・ウィンター"
ル・マン24時間優勝者
1986 with:
デレック・ベル
ハンス=ヨアヒム・スタック
次代
デレック・ベル
ハンス=ヨアヒム・スタック
アル・ホルバート
先代
デレック・ベル
ハンス=ヨアヒム・スタック
アル・ホルバート
ル・マン24時間優勝者
1987 with:
デレック・ベル
ハンス=ヨアヒム・スタック
次代
ヤン・ラマース
ジョニー・ダンフリーズ
アンディ・ウォレス
先代
A.J.フォイト
ボブ・ウォレク
アル・アンサーSr.
ティエリー・ブーツェン
デイトナ24時間優勝者
1986 with:
デレック・ベル
アル・アンサーJr.
次代
アル・ホルバート
デレック・ベル
チップ・ロビンソン
アル・アンサーJr.
先代
アル・ホルバート
デレック・ベル
アル・アンサーJr.
デイトナ24時間優勝者
1987 with:
デレック・ベル
チップ・ロビンソン
アル・アンサーJr.
次代
ラウル・ボーセル
マーティン・ブランドル
ジョン・ニールセン